必死で生きてきたのか

正直、舞台上で少数民族の厳しいながらも暖かな愛をはぐくむ生活を、ヤンリーピンの現代経済にあわせた舞台芸術の実現とに、ダブルパンチでやられた。

自分が悩んでることなんてつまらないことじゃないか・・・。



おそらく、病気をしている私が少数民族として存在していたら、とっくに姥捨て山行きだろう。

なんせ踊れない女はどんなに美人でも嫁の当ては無いそうだ・・・。

美人でもないし、踊れない。やばい・・・。

これは自分の生活にもいえる。

魅力的な人間として、果たして存在しているのか。



もう一つは、前から言っているきちんと実現しているかどうか、たとえば収入の話、というところだ。

彼女はきちんとそこにリーチしている。

お金だけじゃない。少数民族そのものにスポットを当て、伝えたいこともメッセージ化している。





仕事をするって、どこか格好をつけていたように思う。

お金を儲けるには、もっと特別な技術が必要だと思ってた。

だから自分には無理。

何も出来ない。

そんな風に思ってた。



それは多分、本当に必死じゃないんだと思う。

今最低限食べていけるから、それでいいんだと思ってるんだと思う。

本当に地べたをはいつくばってするようなことは無いと思ってるんだと甘えてる。

なにより、地べたをはいつくばってる自分が格好悪いと思ってる。

人に馬鹿にされたくない。



病気だからなんだからと、自分に理由をいつまでつけるんだろう。私は。

そっちのほうが恥ずかしい。

いつまでもそんな状態だったら、病気だって治らない。

生きるという名詞には意味がない。生きる内容に意味を持たせるのは自分じゃないか。



少数民族の過酷な生活からすれば、自分の生活は実に快適で満たされている。

満たされているけど、ある意味別の次元で過酷だ。実態の人間関係、精神やバーチャル。

彼女らとそういう意味では変わらないのに、必死さでは劣っていると思った。



また、癌に関するこのブログや、自分が経験したことをどうやって伝えるべきかについてももう少し考えるべきじゃないかと思った。

つらい、悲しい、だから検診へ。では届かない。

どうやったらいいか、もっと考えて、そしてどんどん発信するべきだと思った。





人間の根源的な力を見せ付けられた。

生きるって楽しいんだって。



とにかく格好をつけるのはもうやめよう。

癌じゃなくてもどっちみち、いつかは死ぬんだから。

癌が悲劇じゃなくて、小さいことにこだわってるほうが悲劇だ。

男がいて、女がいて、子供が生まれて、命の輪廻があって、それが御世に続く。

男も女もどっちも大事だ。



ヤンリーピンは言う。

「西洋のダンスは形にこだわる。」



そうだ。形にこだわるのはやめよう。

内なるもので生きていこう。

出来ることからやればいい。





とにかく今日は楽しかった!