失われた対象を求めて−リハビリは希望

今日は兵庫県まで足を伸ばして、リハビリテーション科で受診した。
前から気になっていた、動きが悪いこと、肉がダボ付いていることなど、動きのチェックと現状把握のために。

一通り動きをチェックしてもらった。
とても驚いた。
全て数値化する−腕を上げる角度。「なんとなく」「やった気分になる」ではなく、はっきりと結果に現れる。
入院中のリハビリとは一線を画していた。
通院中の病院もはっきり言って良い方だと思うけど、今日観てもらって本当に良かった。
先生とは別に、担当の理学療法士さんも親切で丁寧な人だった。

診断としては、やはり術後1ヶ月ではまだ傷の影響があること、動きとしてはそれほど悪くはないので、術後2ヶ月ごろを目処に徐々にスタートし、それまでは現在の自主リハビリでよいとのこと。

少しほっとした。と同時に、やはり体を失ったのは大きかったのだと改めて思った。
1ヶ月しても治らないなんて・・・経験してみないと分からないなぁ。


その後、先生とお話をする時間をいただけた。
先生は色んな活動をされていて、その事例をいくつか紹介していただいた。
なぜリハビリテーション科を選んだか。それは先生のご家族の病気経験から来ていた。

リハビリは患者を看取ることのない科。しかし、患者のQOLのためには欠かせないものと考えておられた。
私も激しく同意する。
先生の言葉が胸にしみた。
「人間の死亡率は100%。だったら、この有限の命を以下に使い切るか、リハビリテーションはそのお手伝いが出来る」

先生は医学部学生に、デスエデュケーションの授業をされたことがあるらしい。
死を見つめずに患者を診ることは出来ない。
本来はそうだと思うが、意外と医学部では死を考える授業がないらしい。

そのとき、いくつかの本を紹介されたが、一つ紹介をしたい。
対象喪失小此木啓吾(おこのぎけいご)著。
小此木圭吾氏は、日本におけるフロイト研究の第一人者らしい。
出典:Wikipedia

ぱらぱらとめくったが、中身は今度購入して読むとして、「対象を失うことが必ずしも対人だけでなく、ペットや体、組織や国家まで、愛着のあるものが含まれる」という説明を受けてとても納得した。
私も体に固執したし、今でも固執している。
あらかじめ自分が持ってきた体に対して、「あって当たり前」の愛情がある。
それが失われたときの悲しみは、当事者でないとわからないだろう。
家族を失った悲しみ、突然の理不尽な事故、恋人と別れる、離婚する、会社が倒産する、国がなくなる。 すべて当事者でないとわからない。

「体の一部を失って、悲しんで良いんだな。」と思った。
以前体を失って悲しいといったら、愚痴るなといわれたことがあった。
それは本当は違うことが言いたかったのだと今では思えるけど、そのときは悲しむなと聞こえた。
責任を転嫁したり、「何で私だけ」と思うことと、悲しむことは違うのだ。

しかし失って得たことも多かった。大げさでもなんでもなく、人生に対する考え方が変わった。
そしてなにより、リハビリや再建などで体を改めて作り直せる可能性もある。
元には二度と戻れないけど、自分が使い易いように持っていくことは出来る。

私はリハビリテーションに期待をしている。
心と体は連動している。
徐々に動くことを確かめることで、不安が解消されるし精神的に落ち着ける。

前は「なくした体を返して」と思ってたけど、「新しい体を手に入れる」方に気持ちがシフトしている。
なくしてしまったのは取り返せない。やっと諦めが付いた。
どうして諦めが付いたのかな。これはある日突然、そう思えるようになった。
なくしたって思わなくなった。
なくしたものに必死なうちは、悲しみは癒せないんだろうな。

未来に目を向けてこそ、傷は癒えるのかもしれない。
逆に言うと、未来に希望が持てないうちは、傷は癒えないかもしれない。
傷を癒すのは自分がする。周りに助けられながら。
精神的な面では、潜水服やヤン・リーピンの舞踊は、私に未来を見せてくれた。

今の目の前のことをやる。それが未来につながってると確信できる。
リハビリは身体的な希望を私に与えてくれる。