Seasons of Love
Seasons of Love - Rent
http://www.youtube.com/watch?v=hj7LRuusFqo
この歌をツイッターで教えてもらってから、ずっと頭の中で回っている。
修論で悩んだり、仕事で迷ったり、色々不安に思いながらも、
なんとかここまでこれたのは、本当に周囲で応援してくれてた人たちのおかげなんだと思う。
私が癌になったときから、特別な数字は全て闘病に係る事だった。
20100129、20102018、20100303
告知され、手術し、抗癌剤が始まった日だった。
自分にとっての特別な数字を、緊張を持って数える。
「これだけ過ごせた」「あとどれくらい?」
ぐるぐると二つの問を行ったり来たりする。
2年半が過ぎ、自分の「将来」について落ち着いて考えられる精神状態になってきた。
未来を諦めない為に大学院に行ったものの、心の奥底ではいつも不安に苛まれていた。
私にとってこの2年半の間の学びや経験には、未来があるのか自分でも分からなかった。
この曲を聴いて泣きたくなった理由は、私の2年半が無機質な数字の羅列とそれらを数え上げる事ではなく、たくさんの計りきれない愛で埋め尽くされている事に気付いたからだ。
受け取った事は、振り向いて初めて気がつくのかもしれない。
そして、2年半を振り返った時に、私が愛を送った人の少ない事に気付いた。
闘病に必死すぎて、近視眼的になっていたと思う。
特に家族、息子には本当に色々と心配をかけ、精神的にお互いに不安だったと思うし、親としての役割を果たせなかった事が多かったと思う。
女性としてもあるが、一人の人間としても自信を失っていた私は、家族や人に甘え、受け身になっていたと思う。
不安と戦ってきた、意味があったと思えた。
そして、受け取った愛の数を数えるのではなく、相手に渡した愛の数を数えるときが来た。
そばにいてくれる人を大切にすることは、凄く難しい事ではないことを改めて思った。
受け入れている事を態度で示す事。微笑んでいる事、少し待つ事、話しかける事。
家族、そして何より、仕事で、今度は私の出番。
37歳になりました
癌を告知されてから2回めの誕生日を迎えた。
ちょうど2年半過ぎ、ずいぶんと体調も精神面も回復してきた。
この2年半は本当に大変で、今も大変な状況は変わらない。
もう10年くらい過ぎたんじゃないかと思う位、色々な事があったしガン前の生活では考えられない事をしてきた。
とても辛い時期だったのは間違いがない。
しかし、そんな中でも小さくとも喜びを見つけることが出来る事を学習出来たのは、私の今後の人生の中で大きな成果だと思う。
また、癌になる前にはやってこなかった事、不出来な事、苦手な事、未熟な面への指摘を受ける事など、まだまだ今後もたくさんあるだろうけど、体力精神力が空っぽの中で様々なしんどい出来事に出会い、なんとかやり過ごした事も大きかったと思う。
私は天秤座で、この2年半は土星という「試練の星」が天秤座にいたという。
今週来週辺りで次の星に移動するらしく、プレッシャーから解放される状態なのだそうだ。
2年半、まさに試練だったと思うし、自分自身よく堪えたと思う。
まだまだ辛い事はたくさんあるだろうし、その中でも喜びを見つけられる様に日々精進が必要だなあと、ため息まじりに思う。
癌闘病期にやめてしまった事がたくさんあり、深呼吸する言葉や俳句、写真、他、またぼちぼちやり始めたい。
このブログも途中で更新が途絶えたのは、ガン闘病から経過観察に至り、その中で様々な人と出会う中で色々考えさせられる事が多々あったから。
もう少し自分の考えをまとめたり調べないと、書けなくなってしまった。そろそろ再開しても良いかな、と思えるタイミングになった。
私がここまで生きながらえたのも、ひとえにそばで、遠巻きに、励まし見守って頂いた方々のおかげです。感謝致します。
機会を与えて下さるとは凄い事なのだと、この2年半で気付かせてもらいました。
しかし、人との出会いはさよならとセットで、たくさんの人と出会い、さよならもその分ありました。
悲しい形のさよならが多かったのが、特に闘病期では辛かった。
もう会えないけど、生きてる限り私は覚えてるよ。ありがとう。
息子が初めて私の誕生日を覚えていたのは、単にパスワードが誕生日だったからじゃないのか?と思いつつ、彼の成長に密かに感動しました。ありがとう。
次のステップを踏むための記録として。
斜めから付き合う
私は実名で公表し、仕事にも生かそうと名刺にもサバイバーの事をいれていた。その話になると、相手は泣くか黙ってしまう。
私はそれがいいと思ってたし、これからも隠さない。それは一つの戦略。
でも、それで色んな人や問題と衝突してきた。
生活保護も受けず、どうやって仕事しているのか、前の旦那に食わしてもらってるのかなど、中傷もされた。
私は、生活保護のような社会的な保護は受けてないし、生活費をもらってるわけではない。
働いてるし、真面目に生きてる。
だから、認められないことが、腹立たしくて仕方なかった。
ここにきて、一つの結論を持った。
病気と真正面だけじゃなく、斜めからも付き合ってみようと。
真正面からぶつかって、ショックを受け、悲しかった。
問題が解決される事もあるが、大半はされなかった。
感情的と思われた。
真正面でぶつかって、学ぶことは多かったけど、こと他人に理解してもらうことにおいては、実りは少なかった。
だから、これからは真正面だけじゃなく、斜めからも付き合う。
忘れたり、おちょくったり、ユーモアをともつってこと。
でも嫌なことには毅然という。
大声で泣き叫んだり、人に聞いてもらったりして、すこし落ち着いた。
ステージに立つ
先週の日曜、このイベントに参加した。
アピタル乳がん夜間学校 課外授業 in 東京&大阪
かなり面白かった。
是非USTご覧下さいませ。
このイベントの前に、ここに出演されている山崎さんとご一緒させて頂いた。
初対面だったので色々自分たちの病歴を話していて、ガンと告知された時のことを思い出した。
ものすごく不思議だったけど、今でもあの感覚は覚えている。
ガンと宣告され、次の日このブログを立ち上げる時、私は「私のステージはこれからあがる」と思った。
緩やかではなく、崖がそびえ立つ感じ。
足下から地面がなくなっていく。
だから、這い上がるしか無い。
そう思った。
多分それだけ恐かったのだと思う。
今度の1月で2年になるけど、あれからまたぐるりと戻ってきて、今は別のステージに立とうとしてる。
癌とともに、社会と言うステージに。
今度は空へ羽ばたく為に、崖の上から飛び込む感じ。
また新しい周期が来ているのを感じる。
体毛が、再び
久しぶりのブログ。
このところ気分的に上がったり下がったりが激しく、毎日を過ごすのもやっとだった。
ふとした出会いで薬に詳しい方に出会い、自分の抗がん剤のきつさを改めて感じた。
なぜこんなことを書いているかというと、やはり閉経したのではないかと思う。
というのも、抗がん剤の副作用から体毛が生えてきたものの、最近になってまた毛が減ってきた。
髪の毛も思うように生えない。
体毛を処理しない期間が、どんどん長くなってきた。
女性性を35歳で失くすのは、とても悲しい。
「もう生理が来なくていいでしょ」なんて、軽口はまだきけない。
男性でいうと、もう射精出来ない感じなのかな。
40後半になって徐々に閉経する、多くの女性が経験する人生を送ると思っていた。
いわゆる普通の人生に辟易してたのに、体に関しては健康が普通だと思っていた。
当たり前の予想をどんどん裏切って行く日々に、本当に、本当に、舌打ちし、慟哭し、のたうちまわった。
心の中で。
とても苦しかった。今も苦しいけど。
でももう、いい加減に生きていこう。
もういい加減、自分を束縛から放り出してあげよう。
そう思う。
そう思う。
そう思うようにする。
縁
自分はどこに行くのだろう。
そこはかとない寂しさや不安を抱えていた。
どうして拭えないのかな。思い込みから解放されないのかな。
ふと「お墓参りに行きたいな」と思った。
今までそんな風に思ったことはなかったけど、言った方がいいのかもしれないな。
そして気付いた。
「わたしもいつか、誰かの先祖になるんだな…」
息子がいる。
いや、でも、
息子だけじゃないやん。
今まで親だけに教えられてたわけじゃなく、いろんな人と関わってきた縁があったから、ここまでこれた。
少なくとも、私も誰かに影響があったと思ったら、縁って血がつながってるだけじゃないじゃない。
少なくとも、この苦しみが誰かのご先祖になれるなら、それで良いかと、それでいいじゃないと、思わせてくれた。
袖振り合うも他生の縁って、ホントやね。
if
もしも、あと自分の寿命が1年だったら。
最近よくそういうことを考える。
そういう可能性が自分にないわけでもない。
でも忘れていた気がする。
どこかで自分は再発しないと思っていた気がする。
正味の話、私がこれからバリバリ働けたとしても、年数的にも金額的にも限界があるだろう。
息子に何が残したいと思っても、資産と呼べるものはないだろう。
だから、出来るだけ経験をさせたいと思う。
あらためて、もし残りが1年だけなら。
彼との時間と仕事を最優先にする。
もしあと10年なら、50年なら…
多分同じだ。
今までは長さが幸せと比例すると思ってたけど、
大事なことは、時間の長さではなく、その時何をしたか、なのだろう。
本当は恐いけど。本当に1年だったら恐いけど。泣いちゃうけど。
後悔では泣きたくない。
時間があったらやることは、多分やらない。
大切なことを大切にしてたら、後は全ておまけなのかもしれない。