シャングリラの舞台

大きく流れを分けて、混迷期〜家族形成〜集団形成〜信仰とあるように思う。



しょっぱなのステージにもおお、と思った。原始的な太鼓のリズム。

全体を通して言えることなのだが、「舞踏・楽器は神(天・自然)への祈り」であり、「男女の営み」である。

まるで、男女の営みなくしては神(天・自然)との共存がないと思えた。

太鼓は女性を、バチは男性をあらわすという。

虎や女性だけの太鼓部隊、シンバルのような楽器、雨乞い・・・様々な打楽器で少数民族特有の舞踏が繰り広げられる。



そして、月光−。

やわらかさや、愛らしさではなく、女神としての神秘性。気高さ。

これはヤン・リーピンのソロパート。

それまで混沌とした人間の創世記だったのが、一気に神代の国へ舞台が変化した。



女の子たちのラインダンス(?)が華やかでかわいらしいのだが(この舞台の前半メインでもある)、私はその次の舞踏に魅入ってしまった。



女性の国、という舞踏。



♪太陽は休んでもいい。月も休んでもいい。

でも女は休まない。

もし女が休んだら、かまどの火が消える。

扉の隙間からの冷たい風が老人の頭を痛めつけるなら、女は我が身を持って風をさえぎる。

(略)

女が家にいるとき、その家族は一つになる。

もし女がそばにいれば、男は山崩れにも耐える。

(略)

女にとって、辛すぎる挑戦はない。

もし女が人生に失敗すれば、人生はもはや甘くない。

もし天上に女がいなければ、夜明けがくることはない。

地上に女がいなければ、緑は育たない。

男のそばに女がいなければ、男はすぐに病に倒れる。

地上に女がいなければ、そこに人類はない。

太陽は休んでもいい。月も休んでもいい。

でも女は休まない。





ダンスは抽象的で、しかも男性の集団の中に女性が一人だけという構成。あえてこういう形にしたという。

うーん、すごい。



このあと打歌という舞では、現代で言う男女の合コンの舞踊が繰り広げられる。

「人として生まれたのに踊らないなら、生まれた意味がない」

男女の激しいタックル(!)で気に入った女の子を男の子が抱っこして帰って行く。でも女の子は簡単に落とせない。男がぶつかってきたらそれ以上の力でぶつかる。

きっと山間部の厳しい生活では、男女差があるとはいえ、女性でも力がなければ生きていけないのだろう。



メインダンサー2人が、最後女の子をお姫様抱っこしていた。が、途中で力尽きた。

そのとき、女の子がなんと男の子をお姫様抱っこしたではないか!

会場からは笑い声が。

これがたぶん、この舞台を象徴していると思った。





もう一つ衝撃的な舞踏を。

煙草入れの舞、というのがある。

これはもうほとんど交尾のダンスといっていい。虫や他の動物になぞらえた、交尾まがいのダンスが繰り広げられている。

こう書くと下品だが、全然違う。

自然賛歌、人間賛歌。

内からあふれ出る、生命力を感じた。

そして、つがいになる意味を、私は改めて理解したように思った。

契りとは、相手を信頼するとか条件とかそういうことじゃなく、「一緒に生きる」ということなんだと。

一緒に生きるための信頼や条件ではない。理由などではない。

「共に死ぬまで生きる」、ということなんだと思った。

うれしくなった。愛するって素晴らしい。



理想郷とは、場所ではなく、人間の営みがあるところ。



男女が互いを求め、子を産み、民族を愛し、土着で生きていること。



そんな風に思った。