社会と心

私は今、経営を学ぶ為に大学院に通っている。


大学に通う理由を、ずいぶん前に書いたと思う。
http://togetter.com/li/106051
http://togetter.com/li/105880
まとめて頂き、ありがとうございました。
振り返れて、本当にためになります。


改めて振り返って初めて、「ああ、がんばったんだな」と思った。
そして、緊張していたのもわかる。合格したことが実感できなかった。
3ヶ月って、ずいぶん前なんだなぁと思う。1年前は遠すぎて逆に新しく感じる。


実際勉強して思うことは、癌というのは事業を興す中では一つの事象、理由であって、全てではないと言うこと。
世間的にはまだまだ関心のあることではないと言うこと。
経済とは、儲かるか儲からないかが継続できるかどうかの尺度であり、必要だから続けられるわけではない。


それはよくわかってる。
私はよく理解したのは、「仕事を作る、続けることは健康が第一でなければならず、健康はスキルの一つ」であると、日本社会ではしみ込むほど認知されてるのだなと言うこと。
はっきりと「ガン患者は雇えません」と言われたのも「ガン患者の面倒を見切れない」と言われたことも、とても私の心の中に重くのしかかっていた。
振り払うように仕事したい、もっと仕事が欲しいと思った。
社会に参加できる、一人の普通の人間ですといいたかった。
社会の中で「がん患者です」ということは、これ見よがしのように見えるのかもしれない。


ついに、切れた。
耐えきれなくなった。
言われた言葉が頭の中で何千回何万回響いただろう。
今でも泣けてくるけど、その場では泣けなかったし泣かなかった。


合格したことも、やってきたことも、全て色あせて見えた。
だんだんと人の顔が変わっていくのもわかった。
同じことを言う、同じところをループする、そういう私が嫌になった人もいる。
最初ありがたく受けていた協力も、徐々になくなっていった。
(もちろん、今も協力的で励ましてくれる人もいるが。)


世間は待ってくれない。乗っていけなければ忘れ去られるし、時勢や話題をつかまなければ「タイミングを逃したね」という一言で終わりだ。
心の中で乗っていけない、どうしても引っかかる部分があった。


さて、ここまで書いたことは、癌と言う言葉がなければ、ただの能力がないことを言い訳にした人間のいいわけに聞こえるだろうか。
癌自体、言い訳なのだろうか。


私は、そのどちらも考える。
きっとそれが、私が出来るがん患者の社会参加を促す事業の根幹になるのだろう。