最近ジムに通い始め、泳いでいます。(といっても2回行っただけ…)
今日もがんばります。

さて、病気になって入院や手術、長期的(1ヶ月以上かかる場合を想定)な治療になったとき、治療方針を誰が決めるのか?ということが、意外と治療する本人が決めていないのではないかと思いました。

「なぜか病人になると本人に判断させない傾向があると思う。
病人に判断能力がないと思っているのかな。社会的傾向かしら。」

ふとこんなことを思い出した。
実際、自分が闘病するときに、「抗がん剤はする必要はない」「放射線治療なんてしたら皮膚がただれて元に戻らなくなる」
など色々言われた。 「子供に病弱な姿を見せるな。入院できるならしておけ」
ということも。
正直、そのときは寂しいなぁと思った。
多分、こういうことを看病側が言うのは、「見ていられない」「最善」だと思って患者本人に言うんだと思う。

しかし、正直に言うと、患者本人は孤独に思うのではないだろうか。
「私自身が決めること」とがんを告知されたときに決意した。
しかし、周りがあれやこれやと気をもんでいたら、特に私は周りの意見に流されやすいのでとても気をもんだ。
精神的には治療どころではなく、どうやって家族に治療方針を納得してもらうか、
そればかりが気になった。

家族側もつらかったと思う。
家族が思う治療方針に従わずに、どうなるんだろうかと不安だっただろう。
お互いの不安が感情的に発展すると、イライラして相手にぶつける。
闘病は家族とぶつかるときでもある。

でも結局、自分の体。患者本人が決めた方がいいと思う。
そして、こういうときに「どうなっても知らないからね」「責任は自分でとれ」などの言葉は、患者にとってかなりつらい。

闘病は、患者がするもの。
看病する側は完全にサポートに回ってほしい。
患者が何をしたいかを理解してほしい。
でもそれは、わがままを聞いてほしいのではなく、私が一番思ったことは「話を聞いてほしい」ということ。

痛い、つらい。体をいじるので当然そういうことが起こる。
(ステージによってはガンそのものが痛かったりするわけで)
そのときに、「どうしたい?」と一言聞いてもらえると、気持ち的にはとても楽になったかもしれないな、と思った。

患者は痛すぎて、時にいやなことを言ったりもする。
私もあまりにも抗がん剤がきつすぎて、弱気になったときもあった。
(起きることも歩くことも痛すぎてできなくて、何の為に治療しているのかわからなくなる)
そのときはしっかりと叱って(注意して)、励ましてほしい。


私が看病する側になったとき、いくつか決めていることがある。
「どうしたの?なにがしたい?」と尋ねること。
「どう思う?何を感じる?」と気持ちを聞くこと。
「そう思うんだね。そうだね。」と理解すること。

これだけでも相当違う気がする。


苦しいとき、感情的になりやすい。
闘病生活は、そういうときにこそ、何か人間性が発揮される気がする。
そういう意味でも、闘病していくつか気づけた点があったことは、収穫だったと思う。