夜と霧から脱出するには

抗がん剤を受けているとき、そのダメージのために精神面も蝕まれる。

当初まだ動けるときは、カツラをつけるのが本当に嫌だった。
屈辱的に感じた。
セックス・アンド・ザ・シティのサマンサが、髪が抜けるくらいなら坊主にすると自分で髪をバリカンで剃り落としたが、私は美容室で坊主にしてもらった。

病気になって、負けていくことを象徴するかのようだった。
私は絶対に負けたくなかった。

手術をして腕が上がらない。痛い。泣いた。
でもこれもリハビリを早く始めたくて、主治医やリハビリ医に早期から相談していた。
「動かないなんて、動けないなんてありえない。」

可能なことが少なくなっていくと、徐々に精神的な支えが崩れていった。
「健全な身体に、健全な精神が宿る」
この言葉はうそである。

私は体の調子が悪くなるにつれ、滅入っていく自分を許した。
最初はそれではいけない、前を向かないといけないと思っていたが、最後のほうには自分がうつむくことは仕方ないとあきらめかけていた。
人からの励みが、全て疎ましく感じつつあったが、励ましている人が心から言葉をかけてくれているのが分かるので、とてもじゃないが払いのけるようなことは出来なかった。
しかし、態度はよくなかったように思う。
本当は言い訳なのだが。

今、とても前向きというか精神的に回復できたのは、ひとえに私に「鏡」を見せてくれる人が居ることだと思う。
私の言い訳を許さない。だけど見限ったわけではない。
そういう態度は、誠意があると思う。
ありのままの私を受け入れるには、多少の苦痛がある。
「良い私」ばかりではないから。

ただこの時期、自分の姿をどれだけ客観的に見れるかは、とても大切だと思う。

ふと、ヴィクトール・フランクルを思い出した。

第二次世界大戦中に、ユダヤ人としてナチスドイツの強制収容所を経験したフランクル
両親、兄弟、妻は収容所で病死したり、あるいは毒ガス室に送られたりして、妹以外の家族全員が亡くなった。フランクル自身も拷問され、数知れぬ屈辱を受けた。
本来、「絶望しても仕方が無い」と言い訳できる状況だったと思う。

看守たちは、彼のおかれた環境のすべてをコントロールすることができた。
でも彼は違った。自分で「どう反応するか」を選択できる「自覚」を保ち続けていた。
彼自身は自分の状況を客観的に観察することができたから、彼の根本的アイデンティティーそのものは傷つかず保たれたらしい。

強制収容所にいたころ、彼は自分の知性、精神、道徳観に集中したらしい。
失われそうなアイディンティティを、記憶と想像力で何とか保った。
虐待を受けている間、彼は大学で教鞭をとっているところを想像した。
外に出られる可能性は低かった(奇跡的に開放された)が、外に出たときの事を考えた。
希望を持ち続けた。可能かどうかよりも、やりたいことを考えた。

しんどいとき、出来ないことが多いとき、その延長線上で将来を計りたくなる。
そうすると不安に絡めとられる。いや、本当は「不安になることを許してしまっている」のだと思う。
負けるかどうかということではなく、楽しいこと、やりたいこと、希望に集中することによって、「不安を忘れる」ことが本当は大事なんだと、今回の鬱状態の経験から思った。

私はがん患者だが、時々がんのことを忘れる。
がんのことを忘れているとき、がんのことを話したとしてもそれは「他人事のように」話せるときがある。
そして思い出し、不安になることを許してしまうときがある。
思い出しても、不安になることを許可しないようにするためにはどうしたらいいのだろう。
多分、一度リラックス(感情の沈静化)し、その後明確にやりたいことを想像するのがいいのかと思う。

前向きとは視界良好の状態、と、前のブログで書いた。
視界良好の状態とは、今の状況が認識可能かつやりたいことがわかっていることなのだと、今回自分で理解した。

いつもしんどいとき、自分より更にしんどい人を見つけたくなる。
一体どうやって精神を保っているのだろうか、と。
鬱々とした日々に、どうして彼のことを思い出さなかったのか、とても反省している。
思い出していれば、そのときの私の態度なり姿勢はもう少しましで、それなりに充実した時間をすごせたかもしれない。
今思い出したので、よしとしておこうと思う。

ガンだけでなく、これからも困難な状況になるだろうし落ち込むこともたくさんある。
そのときに私は、今回学んだことを活かせるだろうか。
また試されるときが来る。

最後に、フランクのことばを。
「終局において、人は人生の意味は何であるかを問うべきではない。むしろ自分が人生に問われていると理解すべきである。一言で言えば、すべての人は人生に問われているのだ。自分の人生の責任を引き受けることによってしか、その問いかけに答えることはできない」

私はガンに、生き方を問いかけられている。