違和感を大事にする

私は優柔不断だなぁと思う。
決めたことをするのは早いけど、悶々と決められない。
小さい頃はそんな性格じゃなかったのになぁ。

大人になるにつれ、臆病になる。
守りに入りたくなる。
でも本当は、守るものなんてないのにね。
あっても少ない。

たいてい自分のつまらないプライドや、対して重要でもないのに重要だと思ってしまうこと。
きちんと優先順位や価値基準を、分かっているつもりでわかっていない。

なにより、自分が普通だと思っている。
がん患者になって、前と違うことは「私は普通だと声高に言いたい衝動」が大きいことだ。
私は普通の女だと思う。
どこにでもいる。
目立たない。
そういう女が、癌になってしまった。
何か自分が、悲劇的なことに巻き込まれて、悲しみに溺れるのが嫌だった。
だから普通だと思いたかった。今も普通だと思っている。

だけど、今でもどこかで「癌じゃなかったら・・・」と思っているところがある。
どうして?とはもう思わないけど。未だに、胸があったらなぁと思う。

やっぱり、癌であることが普通であると、自分で認めたくないところがあるのだろう。

負けている気がする。
間違っている気がする。
劣っている気がする。

他人の悲劇は、常にうんざりするほど月並みである。
オスカー・ワイルド
そうだろうな、と思う。だからちょっと遠慮気味だった。
がん患者って声高に言うことに、少しおびえてた。

だけど、知らない人が多いことに愕然とした。
そりゃそうだよね。世間的にはまだ癌がどんな風に調べられて、病気になったらどうなるかなんて、分からない。
だから勉強会もしたいって思ってたのに。

がん患者になった人は、多かれ少なかれ使命感のようなものを持っていると思う。
こんなに辛いことを、他の人に経験させていいのかって。
だから、私の周りの人は啓発活動に必死だ。
私はこんなにみんなが声を上げてるから、私独り上げなくてもいいのかな、と甘っちろいことを思っていたところがある。

やっぱり違う。声を上げなきゃ。
癌だけじゃなく、このままじゃ私は何でも言い訳しちゃう。
嫌われるんじゃないかと思われても、何度でもやらなくちゃいけないこともある。

癌になったのは当たり前だけど、本意ではない。
例え望んでいない状況になったとしても、その身におかれた場所で最善を尽くすべきだと、改めてここに来て思った。
今までも嫌なことはあったけど、これからもきっとあるだろう。
不幸だとはもう思わないけど、癌になったからにはなにか意味があるとすれば、それはきちんと思うことを伝えることだと思う。

改めて。
7月に東京で勉強会を開く予定です。
乳癌患者と本音トークをしたい。
本音トークとは、ありのままのがん患者の生活や思いを話したい、ということです。
医学的なことは専門家にお任せするとして、私たち普通のがん患者がいったい何を思い、どんな風に環境が変わり、何に傷つき、何に喜びを見出したのか。
ustも予定しています。
まだ詳細は決まっていませんが、twitterで知り合ったやすゆきさん @yasuyukima にご協力いただいて開催したいと思います。

男性・女性問わず、みんなに知ってもらいたい。

私は、癌になったことは神様が生きなさいといっているんだよ、といわれることに、少なからず抵抗があった。(励ます気持ちと受け取っているので、誤解なきよう。)
私にとって神とは、人格化されたものではなくこの自然の摂理そのものだから。
そう思うと本来死ぬべき人間だったのかもしれない、とも思うから。

でも、受身な考えはもう捨てよう。
こうやって生きているのだから。

あたしは自分で引いた道をまっすぐに進む。たとえ退屈になっても、自分が勝手に選んだ道だからこそ、その道の奴隷になる。
ココ・シャネル
私が選んだ道ではないけど、私の細胞が癌になった。
だから選ぼう。