さらされた交差点−crossing

起き上がると何かしたくなる。
起き上がれるときが少ないから。

そしてそういう時、また私に教えてくれるものに出会う。

映画『crossing』。
この映画は、脱北者に冷淡だったノ・ムヒョン政権下で、危険を承知で極秘に撮影され、イ・ミョンバク大統領に政権交代した後、2008年6月、ようやく韓国で公開された。
そして、2010年4月、日本公開となった。

北朝鮮の炭鉱の町に住む三人家族。炭鉱で働く元サッカー選手のヨンスは、妻・ヨンハと11歳の一人息子のジュニとともに、貧しいけれど幸せに暮らしていた。 しかし、ある日、ヨンハが肺結核で倒れてしまう。北朝鮮では風邪薬を入手するのも難しく、ヨンスは薬を手に入れるため、危険を顧みず、中国に渡ることを決意する。 決死の覚悟で国境を越え、身を隠しながら、薬を得るために働くヨンス。脱北者は発見されれば容赦なく強制送還され、それは死をも意味していた。 その頃、北朝鮮では、夫の帰りを待ちわびていたヨンハがひっそりと息を引き取る。孤児となったジュニは、父との再会を信じ、国境の川を目指す。しかし、無残にも強制収容所に入れられてしまう…。

意外だったのは、脱北する意思は毛頭なかった主人公。
ただ薬が買えればよかった。
この主人公は予備知識がない、という点で他の脱北者よりも悲惨だったかもしれない。

北朝鮮では宗教そのものが危険思想らしい。これにも驚いた。
冒頭、中国との貿易を半公認(賄賂を贈っていた)で行っていた主人公の友人が、聖書を密輸して主人公に初めて見せたとき、主人公は「誰かの家系図か?」と言っていた。

彼らにとっての「神」とは、おそらく「偉大なる首領様」なのだろう。
それ以外の概念がないと言うことが、信じられるだろうか?

北朝鮮は早くクーデターを起こしたほうがいい」ということを言った人がテレビでいた。私もそのときそう思った。
しかし、そもそも反逆することを知らないのに、クーデターを起こすなんていうことができるのだろうか?

人の幸せとはもしかしたら、情報量に比例しないのかもしれない、と思った。
彼らは立派に幸せだった。
食べ物がなくても、犬を殺して食べたとしても、家族一緒にいる間は幸せだった。

私は少なくとも、これまで何度か北朝鮮から脱北する人の映像を何度か見ている。北朝鮮の状況について報道を見聞きしている。
2002年、中国の瀋陽日本領事館に、脱北者の両親と幼い少女を含む子供5人が駆け込もうとし、中国人警官によって引きずり出された映像を覚えている。彼らを助けるでもなく傍観する日本領事館職員の姿がとても象徴的だった。


国と捕らえたとき、まるで普通の人の顔がなくなってしまう。
トップの顔しか見えなくなる。
しかし、やはりどの国でも、普通の人々はいるのだ。
普通の人が大半なのだ。

あらゆるレベルで、運命のようなものが交差しているように思えた。
私にとっての運命。
あなたにとっての運命。
一瞬の線引きで、生死が分かれることがある。
私も、がんという病気になって、とても感じることだけど、健康なときは思わなかった。

この映画で描かれている人たちと自分との共通点、それは「普通の人間なのに」ということ。
ある日突然、何かに引きずられてどこかの道に出てしまった。

引きずり出された普通の人々は、最初どうしたらいいのかわからずと惑う。しかし戸惑ってばかりではやっていけない。だからその場で出来うる限りの努力をする。

しかし努力できない場合は、どうすればいいのだろう。
待てと言われ続けたら。
周りに流されるしかないのだろうか。

理解は「知った、わかった」ことではなく、「相手にどれだけシンクロ出来るか」なのだと改めて思った。
「この状況になったら私はいやだ」「わたしだったらこうするのに」というのは、まったく「理解の域ではない」と言うことなのだ。

最後に、主人公を演じたチャ・インピョ氏の言葉を引用したい。
「溺れている人を指差して、助けよう!と叫んでいる人に『あなたは右派ですか?左派ですか?』と質問することほど愚かな事があるでしょうか」