普通を求めるのではなく、あるがままで
ふと、思い出した。
4ヶ月前の告知前後の事を。
暗かったな・・・当たり前かもしれないけど。
今日九州の親戚も来阪していたので、一緒に食事をした。
その前に新しく、そしてうれしい出会いもあった。
この2組の出会い(再会)で、過去どんな私だったかを思い出した。
このブログを立ち上げようと思ったのは、実はあるがん患者のブログを閲覧していたことがきっかけだった。
ガンだと思っていなかった数ヶ月前から。
すごい偶然だ。
ガンを告知されて、その人のことがすぐ頭に思い浮かび、
ガンと告知されてからもう一度、すでに亡くなっている人のそのブログを読んだ。
「書かなきゃ・・・」
すぐブログを立ち上げようと思ったけど、とても迷っていた。
ガンであることが悲しすぎて、毎日泣いていた。
ガンになったことを恨んだ。自分のやってきた生活を。生活のパートナーを。捨てられたと思っていた人々を。
そのとき目の前の人に、それを訴えたら叱られた。
「それじゃあなたは幸せになれないし、病気を克服することは出来ない。今は力を貸せない」
こういわれて絶望した。
そして冷静に考えるようにいわれた。
腹が立った。嫌いだと思った。
でも叱ってくれた人は、後々まで私を支え育ててくれた。
悩んで悩んで、悩み倒してたけど書く事を後押ししてくれたから書けた。
悲しさや辛さを本当に共有し、私のだらしなく情けない甘ったれた根性を見つめ、自分で立つまでをちゃんと見てくれてた。
私はこの一連のことで、すがるのではなく自分の足で本当に立ち上がることの大切さを学んだ。
でもすぐには分からなかった。
どれだけここで言葉を尽くしても、あのときの絶望感とこの世の中全てに対する嫌悪と敵意を表すことは不可能だろう。
「誰が私を不幸にするのか」
そう思った。
否。
「誰も私を不幸に出来ない」
これが今の私の答え。
私がガンかもしれないと思ったとき、ガンだと分かったとき、相談した人に言われた言葉を今も胸に刻みつけている。
「ガンだとわかってよかった。ガンではないほうが良かったけど、ガンだからといって不幸なのではない。最悪なときは去った。最悪とは、ガンかもしれないと思ったとき。これからは適切な対処が出来る。あなたは不幸ではない。生きて。」
最初は理解できなかった。
今はこの言葉に深く同意する。
もう、私の人生の中で、最悪なときはこないだろう。
たとえ再発・転移があったとしても。
ガンが私に与えた、今のこの幸せを、
ガンと引き換えに、違うステージの人生に立てた喜びを、
今は深く、感謝している。
独りでは、導き出せなかった。
ガンになる前は、求める基準が達せられなくて、私は自分の人生が最悪の方向に進んでいるのを感じていた。
思えば「普通」の人生を求めていたけど、それは「理想」だった。
受け入れられる家族、友人、パートナー、少し贅沢できる収入、おしゃれな住居、優雅な外食、余裕のある旅行。
現実の私とはかけ離れた「普通」の生活。
家を飛び出し、離婚をし、子供を独りで育て、ガンになった。
パートナーに理解はされず、友人は一人もいないと思い込んでいた。
あらゆることが「健全」であることは普通ではないと思う。
何かしら皆、人は悩みを持っている。常にではなくても。
それまでの生活が、ある日突然崩れることだってある。
「普通である」ことが良いと信じ込み、思い込みにすがっていた私は不幸だった。
自然としがみつかなくなった。
「こうあらねばならない」と思い込むことに。
「先を考えすぎ、いかに有利に何を得るか」を考えることを。
「目標を達成する事を忘れ、自分のやり方にこだわる」ことを。
不安を自分で煽って、幸せになることを放棄していた、かわいそうだった私。
今はもう、
「普通」も求めないし、「理想」もない。
ただ「やらずにはいられない」ことがあるだけだ。
出来ることを、出来る限りやる。
出来なくても落ち込まない。
方法を変えて、やるだけなのだ。
何度でも立ち上がろう。
やるべきことをするために。
在るがままで、行こうと思う。