女、人間、わたしであること

今日も病院で体液を抜いてもらった。46cc。まだまだたっぷり出てきます。
「先生、体液っていつまで出るんでしょう」
「長いと2ヶ月くらいかなぁ」
「えー!!」
「FECは水分不足になるから、まぁそんなに長くないと思うけど」
ああー、そういうことも見越して抗がん剤を打つのかなぁ。

「DOCは浮腫と心毒性があるからね。そっちのほうが心配よ」
「えー!そうなんですか?」

抗がん剤の道はまだ長くつづく・・・。


今日は国際女性デーなんだなぁ。
Wikipediaより引用。

国際女性デーにちなむ最大の事件は、1917年にロシアで起こった二月革命であろう。国際女性デー(当時ロシアで使われていたユリウス暦では2月23日にあたる)に首都ペトログラードで行われた女性労働者を中心としたデモは、男性労働者、更には兵士を巻き込んだ大規模な蜂起となり、最終的には帝政を崩壊に追い込んだ。

社会主義の国で起きたんだね。知らなかった。
今では単に女性の美しさをたたえる、女性をかわいがる記念日となってしまった、と結んであるところが可笑しい。

そうだなぁ。
前は女性性を否定しつつ、女性性に憧れていたところがあるかもしれない。
雑誌のような格好をする女性を批判的に見ていたのは、ある種の羨ましかったのだろう。
胸を一部切除したことで、女性性をなくした、と思っていたのも、こだわるところなんだろう。
もう子供を埋めないことも、女性機能をなくすことへの恐れだと思う。

女性でない私は、私ではない。人間であったとしても。
手術直後、胸を無くしたと認識してからはそう思った。
胸を取り戻そう。急いで。

そんな風に思っていた。


今日久しぶりに湯船に使った。
退院してから、体が痛すぎてずっとシャワーだった。
寒いのと痛いのとで、シャワーに入るのさえ億劫だった。(不潔、とかいわない!)
徐々に腕の痛みがマシになってきた。ゆっくり浸かりたかったのと、母が背中を洗ってあげるといってくれたので、思い切って入った。

実はまだ、傷口をじっくりと見ていない。
怖い。

お風呂に入って、左のほうを見ると、乳房が見える。先端には乳首がある。
右をちらりと見ると、同じ位置に乳首が無い。

医者や看護師からすれば、「きれいですよ」という。
確かにそうだと思う。凹んでいるわけではないし、ごそっと取ったところに肉を集めてくれていると思う。
だからこそ傷が深く、だからこそ違和感がまだある。

でも、同じ高さに乳首が無い。
ああ、そうなんだ。やっぱりなぁ。と思う瞬間だ。


今、不思議だけど、時間がたつにつれ私は女性性を失っていないんだな、と思う。
女性であるかどうかを決めるのは、私の意志なんだろう。
そして今は、女性かどうかもどっちでも良くなってきた。
それはあきらめたのではなく、私の中で女性性という軸と、薄っぺらーく人間という軸しかなかったのが、わたしという新しい軸が出来たんだと思う。


自分がどんどん、前とは違うところにシフトしていっているのが分かる。


女性ってことだけにこだわるのが、なんだかつまらなくなってきた。
女であるが故の不安、羨望、孤独、その他。それは楽しい。でもそれだけじゃない。

仕事という軸もあるかもしれないけど、わたしは癌になって気づいたけど、大した才能のない人間なんだなって。
思ってるほど仕事も出来ないし、楽しめてなかった。
他の誰かと一緒にしないで、と思いつつも、その他大勢だったと思う。
仕事だけは失いたくないとしがみつく心が、逆に仕事に対する私らしさを失わせていたと思う。

ここまで書くと、卑下しているように感じるかもしれないけど、実際は逆。
過去を否定しているのではなく、今の暫定的な尺度で評価しているだけ。
私はわたしという、今何か光るようなものを見つけた気分。

ここまで考えられるようになるのは難しい。
「胸や子宮があるから女性だということではない。」
優しい言葉も聴いた。
とてもうれしかった。
でも自分で悲しみにおぼれて、自分で納得するのに時間がかかった。


美しくはありたい。
胸はほしい。
仕事も出来るようになりたい。
もっと動くからだがほしい。
これらはあったら良いな。実現できたら良いな。

でもそれ以上に、私はわたしをもっと知りたい。いいことも、悪いことも。

わたしという豊かな山を見つけた。今はそこに迷い込んでる。それを楽しんでる。