わたしのからだ・わたしのそんざい

胸が明らかに、左右で違う。

今日その事にはじめて気がついた。
きっかけは、主治医の「ガバッととりましたから。見た目以上に。」の一言。

かなりショック。

「木曜辺りにとった組織を見てもらいますから。」

絶句…

「あ、ダメですよ。見てもらわないと。ボディイメージ持ってくださいね。思った以上にあったと思う人もいるので。」
つまり、今後の異常を自分で認識するためにも、体の事をはっきりと認識しないといけないのだ。

ビックリした。
改めて、体を削ったんだと悟った。
同時に、女として終わったと思った。

昼間母が来たとき、胸の再建手術の話をして来た。
「やめて。切ってないから解らないと思うけど、どれだけ痛いか。またこんな思いをするの?どれだけ怖かったか。また手術するなんて言われたら…」

手術室で、あの特有の照明を見つめながら、最後の最後意識が遠退くまで、涙を流した事を覚えてる。

「大丈夫や、心配しないの。すぐにとは言わないし…」
母はそれ以上なにも言わなかった。

今は聞きたくない。

いまだって、どんなに痛いか…。
当然、母も悪気があるわけではない。
でも先の事を言われても、今の痛みを受け止めるだけで必死だ。


胸が片方、ない。
子宮も、生理を止める。

わかってたけど、わかってなかった。
頭で理解することなんて、ほんと少ないな。
それとも、私が甘いんだろうか。

体への欲求。完全体であることが当たり前という、思い込み。
まだ取れない…。
だって、テレビでも、雑誌でも、自分の親ですら、不完全な体の人が美しいなんて、認識がないんだもの。

母が、他の入院している人を、たまに「あれ」という。
英語で言うと「it」。
つまり、人という認識ではないのか…。
言い過ぎ?
下町育ちでお上品ではないが、母は悪い人間ではないことを一応書いておこう。

悪意なき、言葉。
母だけでなく、世間ではそう認識されてるんじゃなかろうか。
もちろん、そこには不完全な私も入るだろう。
「自分だけは違う」そう思っているだろう私が。

わたしのからだは、誰のものなんだろう。
どうしてわたしは、完全なからだを求めるんだろう。

男の人を意識するから?
そうかもしれない。
もう人生で、恋愛はできないだろうと思っているところがある。
誰が好き好んで、隣に完全な体の女の人がいるのに、私を選ぶんだろう。
まずはじかれる。

でもそれだけじゃない。
やはりかんぜんなからだが、美しいからだ。
不完全でも美しいかもしれない。
でも「不完全」。
当たり前でなく、マイノリティ。
憐れに思われる存在。

まだ、我欲に押し潰されてるんだなぁ。
私。
愚かなことはわかってるけど。

生きてるだけで、満足。
そんなことを思って、生きている人はどれだけいるだろう。
家、服、車、仕事、食事…その他、あらゆる事に満足を求めてる。
「生きてること」が当たり前だし、「五体満足」が当たり前。
死ぬとも思ってないし、手足や胸がないなんて思ってない。

…謙虚じゃないんだ。私。この期に及んでも。無い物ねだりして。

何て弱いんだろう。


まだ、わからないよ…。

どうして生きてるんだろう。
私ってなんの存在なんだろう。

ガンになりました、胸切りました、おしまい。よかったね。

そんな話じゃないよ…。

でも、

きっと自分だけじゃない。不条理でも生きている人は。
ガン患者がこんなにいるとも思わなかった。
いろんなガン。
いろんな人生。

医療ドラマを見るのが辛い。
人の死を聞くのが怖い。

まだこうやって、繰り返していくのかなぁ。
いつまでも果てしなく。

終わりもない。
ゴールなんてない。
考え出したらきりがない。

命は、何かに投資するものならば、
わたしのいのちは何に役立てられるんだろう。

自分の意思ってなんだろう。私これからどうやって生きていきたいんだろう。


今日主治医が、ひとつの検査結果を持ってきてくれた。
「脇にもひとつガンが見つかったけど、他には転移がなかったよ。よかったね。最初(ガンが転移していると解って)言おうかどうか迷ったけど、病理解剖で転移がないってわかったから。ほっとしたよー。」

主治医ははっきりしている。
命>乳房。
しかし、短期的に見ても助けられても、長期的にダメな場合(自殺する)が多いから、温存する。

タフだ。
一極集中するために、他は切り捨てる。
命が最優先だ。
日曜にもガーゼを張り替えてくれたり、一人で乳腺外科を切り盛りし、一人一人の患者を診てる。
年間100例以上。
そして、あとでネットで検索したら、患者の会や講演会にも参加してる。
論文も多い。

どれだけたくさんの給料をもらっていても、果たしてここまでタフでいることができるだろうか。
主治医の意思を感じる。

他の外科医も同じだろう。

私はこの闘病中に、主治医のような意思を持つことができるだろうか。
いきる意味を与えられるのではなく、私自身で発見できるだろうか。

命の恩人。そしていきるお手本。

転移が最小で食い止められたのは、私の意思ではなく、手術日を絶対動かさなかった主治医の意思だ。